「ん……」
ふと目が覚めた。
閉められたカーテンの隙間から朝日が差し込み部屋を照らす。
「あ、起きましたか?」
「え……憂?」
声を掛けてきたのは、憂だった。
その服装はなぜかエプロン姿だった。
「どうしたんですか? 驚いたような顔をして」
「いや、だって……」
目を瞬かせる僕に、不思議そうな表情を浮かべる憂だが、そもそも根本的におかしかった。
「どうして、ここにいるんだ?」
「どうしてだなんてひどいです。それは私たちが恋人同士だからですよ」
照れ笑いを浮かべる憂の返事に、僕は自分の耳を疑った。
「もぅー、何を言わせるんですか? 浩介さん」
「何を言ってるんだ?! 僕の恋人は憂じゃないぞ!」
顔に手を当てて恥ずかしそうに相槌を打つ憂に、僕は慌てて否定した。
「ですから、本当は私のことが好きだったんですよね?」
「……は?」
憂の言葉に、とうとう僕の理解が追い付かなくなった。
「私って、こうすれば……ほら、お姉ちゃんみたいになれるんですよ」
「みたいだな。それがどうしたらそう言う結論になる?」
結んでいた髪を唯の髪形にして唯そっくりになっている憂に、僕は理屈を問いただす。
「浩介さんはお姉ちゃんを私に重ねていただけなんですよ?」
「…………お前は、何を言っているのかわかるのか?」
憂の言葉は、姉を侮辱しているとしか取れない内容だった。
病的に感じるほど、姉を立てていた憂という人物は、そこには影もなかった。
「僕が好きなのは、寸分の狂いもなく唯だ」
「私にはわからないなぁ。だって、お姉ちゃんはいつもごろごろしていて、何もできなくて、天然でいい加減な人なんだよ? だからね」
憂はそこまで言うと、僕の前まで近づく。
「私にキスして?」
「ッ!?」
思えば、ここから僕の迷走は始まった。
「澪……どうしてここに?」
家を飛び出すと、まるで僕を待っていたように立っていた澪に、僕は驚きを隠せなかった。
「浩介を正しい道に戻すためだ」
「それならちょうどいい、憂を何とかしてほしいんだ。なんだかおかしくなっちゃったみたいなんだ」
僕はこれ幸いにとばかり、澪に憂のことをお願いした。
どう見ても憂の様子は異常だ。
「おかしいのは浩介の方だよ」
「え?」
だが、返ってきたのは僕が予想してもいない言葉だった。
「いい加減で、変なあだ名をつけたりする奴のことを好きになる理由がわからない。もっと適任者はいるだろ? たとえば私とか」
「ッ!」
小悪魔を彷彿とさせるような笑みを浮かべる澪の言葉に、僕は逃げるように駆け出した。
おかしい。
何もかもがおかしい。
気が付くと、梓と合流している場所まで来ていた。
「私を袖にして唯先輩を選んだ気分はどうですか?」
「な、何を言ってるんだ!?」
梓の皮肉を隠そうともしない言葉に、僕は言葉を失った。
「唯先輩といちゃいちゃして、さぞかし気分が良くて笑ってるんでしょうね。私の気持ちも知らないで」
「ちょっと待って、梓だって言ってたじゃないか! ”お似合いだって”」
あの時の梓の言葉に、嘘などないということを僕は信じたかった。
「そう言わなければいけない状況に追い込んだんじゃないですか! 先輩に嫌われないためにがんばってきたのを見て笑わないでよ! 私は浩介先輩みたいになんでもできるわけじゃないの!」
「ッ!」
僕は走って逃げる。
何から逃げるのだろうか?
(どうしてこんなことに?)
分からない。
何もかもがわからない。
「はっ!?」
気が付くと僕はベッドの上に寝ていた。
外は夜なのかまだ薄暗かった。
(ゆ、夢?)
確信はできないが、徐々に頭がさえてくることで、理解することができた。
試しに、自分の頬をつねってみる。
「うん。痛い」
ちゃんと痛みを感じたので、これは現実だとはっきりした。
(それにしても、何であんな夢を)
僕が見たのは紛れもなく悪夢だった。
「………ダーク・ラスト・ジャッジメントか」
悪夢の原因はおそらくこの間の魔法だろう。
あの魔法は、爆発的な攻撃力を誇る魔法だが、それは闇というものを利用しているからだ。
闇とは別名邪気とも言い、人の負の感情(怒り、悲しみ、憎しみなど)によって生成されるものだ。
人間には完全なる悪人はいない。
巷にいる犯罪者は”闇”にとらわれた一種の被害者だ。
とはいえ、普通であるならば闇にとらわれても自分自身で対処することが可能などで、犯罪行為に及ぶことはないが。
僕は、その闇を無意識的に集束させて体の中に取り込む体質らしい。
そのせいで、僕の周りでは色々な事件が引き寄せられる。
この間の通り魔にしろ、内村竜輝や時間のループにしろ。
できる限りそれを防ぐため、封印を施しているのだが、この間の一件で一時的にではあるが解放してしまったため、その代償が僕に押し寄せているのだ。
その代償は一定ではない。
とてつもないほどの破壊衝動に襲われることもあれば、悪夢を見たりすることもある。
今回は後者のようだった。
悪夢の場合は、本人である僕が一番恐れる物を見させられる。
今の例でいえば、夢の中で憂達が口にした言葉は僕が無意識的にそうなることを恐れている物なのかもしれない。
(とはいえ、かなりストレスになるんぢょね)
夢の中とは言え、みんなから浴びせられる言葉の矢は、僕をこれほどかというほど痛めつけていた。
(憂に言うべきなんだけどな)
僕は、ふとそんなことを考えていた。
夢に憂が出てきたことで、これまで僕が抱えている課題を思い出してしまったのだ。
その課題は、”憂に唯と交際を始めたことを言う”というものであった。
順番が違ったり、至極簡単そうに見えるかもしれないが、実はこれが重要かつ難しいことだった。
憂は、悪く言えば、唯に依存している節がある。
そんな彼女に、交際のことを言えば修羅場に発展する可能性だってあった。
何せ、僕は憂から姉を奪った人さらいのようなものなのだから。
二人いっぺんに愛せばいいという人もいるだろうが、それはいささか幼稚だ。
一人を満足に愛せない者に二人など無理に決まっている。
(何年かかってでも、憂には快く受け入れてもらえなければ、その先のステップには行けない)
ご両親への挨拶はその後だ。
「よし、頑張ろう!」
僕は、改めて決意を固めるのであった。
皮肉にも代償で見させられた悪夢が、僕の背中を後押しすることになったのであった。
「突然だが、決議を取る!」
放課後、軽音部部室でいきなりそんな話題を切り出したのは、部長の律だった。
「いきなりどうしたんだ?」
「そうですよ、決議って言っても一体何の議題何ですか?」
律の言葉に、澪と梓が首をかしげる。
「議題はもちろん! 我が部のバカップルのことだ!!」
「あー」
「納得です」
議題がわかるや否や、二人は僕に呆れたような視線を送りながら頷いた。
「ほえ?」
「な、何?」
間の抜けたような唯の返事をしり目に、僕は二人の視線の真意を尋ねる。
「二人とも、ここ最近その……毎日い、いちゃいちゃ……してるだろ。そのことを律は言ってるんだよ」
よほど恥ずかしかったのか、頬を赤くして僕から視線をそらせながら説明してくれた。
「いちゃいちゃって、それほどひどくはないと思うけど」
「そうだよ、私たちがやったのはせいぜい―――」
唯の言葉で、僕はこれまでの部活中のやり取りを思い起こす。
ある日の軽音部、その1。
「今日はカップケーキよ」
「おいしそうだな、おい」
ムギがテーブルに置いたカップケーキに律は感嘆の声を上げながら一つ手にした。
それに続くように、それぞれがカップケーキを手にしていく。
「はい、浩君。あーん」
「あ、あーん」
最近、僕は進歩して”はい、あーん”に普通に応じられるようになった。
まだ多少は恥ずかしいが、それでも取り乱したりすることはほとんどない。
「うん。やっぱりおいしい」
「でしょ~♪」
「それ、ムギが持ってきたのだぞー」
唯の笑みの前では、律のツッコミなどただの雑音でしかなかった。
またある日の軽音部、その2。
「浩君~。すりすり」
「唯、さすがにこれは恥ずかしいぞ」
座るや否や、いきなり僕の腕にしがみつく唯に、僕はそう口にした。
「でも、気持ちいいよ~」
「ったく、この甘えんぼさんめ」
唯の幸せそうな表情の前では、僕は実に無力だった。
それから唯が離れるまでの間、僕たちはずっとくっついていた。
ちなみに、これは余談だが。
「ムギちゃん、悪いんだけどお茶を――――」
「もふもふ~」
山中先生が部室を訪れた際も、唯は僕の腕に抱きついていたため、
「うがぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
発狂した山中先生は、部室を飛び出して行ってしまった。
「―――くらいしか思いつかないよ」
「それだけ思いついて”くらい”じゃないぞー」
確かに律の言うとおりだった。
考えてみればたくさん思い当たるようなことをしていた。
最後のに限れば、ものすごくひどいことをやっているような気がした。
(今度、山中先生に謝ろう)
心の中でそう決める僕なのであった。
「それで、二人の席を離そうと思うんだけど、賛成の人」
律の呼びかけに、手を上げたのは以外にも提案した律本人だけだった。
「な、なぜ!?」
「だって、人の恋路を邪魔するのも悪いし」
「それに、下手に刺激すると悪化しそうですし」
「仲がいいのが一番だから」
澪と梓にムギと理由を口にするが、なんとなく腫れ物に触るように扱われているような気がするのは気のせいだろうか?
結局、この律の提案は”僕たちが程度を守ること”という結論になるのであった。
とはいえ、それから数秒後には”はい、あーん”をしていたので、全く意味はなかったが。
「ただいま~」
「お、お邪魔します」
夕方、僕は唯に連れられていく形で平沢家を訪れていた。
目的はもちろん、憂に僕たちのことを話すためだ。
「おかえりなさい、お姉ちゃん。どうぞ、スリッパです」
「あ、ありがとう」
あいも変わらず憂は心配りができているが、あの悪夢を見ると裏があるのではないかと変に勘ぐってしまう。
「浩介さんだけが来るなんて珍しいですね」
「そ、そういえばそうかも」
憂の言葉に、僕はたどたどしく返した。
確かに、今まで律や澪たちと一緒にここを訪れたことしかなかった。
(怪しまれたかな?)
少しだけ不安に思てしまう。
唯には僕が今日ここに来た目的を事前に説明しておいた。
表向きは夕食をごちそうになること。
裏の目的は、憂に交際していることを話すためだ。
唯の役割は、僕が話を切り出せる状況に追い込むこと。
そうでないと確実に切り出すことなく、終えてしまうような気がするからだ。
ちなみに、僕が来ることは唯がメールで連絡していたので、憂は事前に知っている。
「それじゃ、お夕飯の準備をするので、浩介さんはリビングで待っていてください」
「あ、僕も配膳を手伝うよ」
唯が私服に着替えるために自室へと向かって行く中、リビングに案内された僕は、配膳の手伝いを買って出た。
何もしないでいるのは、さすがに気まずく感じたからだ。
「あ、すみません。お願いします」
こうして僕は、料理の配膳を手伝うこととなった。
「これで、最後ですね」
「な、なんだか量が多いね」
テーブルに並べられた料理の数々に、僕は苦笑しながら感想を漏らした。
どう見ても三人分の料理ではなかった。
「そうですか? これでも足りないような気もするんですけど」
「………………」
(僕ってどれだけ大食漢に思われてるんだろう?)
あながち間違いではないけど。
準備は終えたが、唯はまだリビングに来る兆しがなかった。
「遅いな、唯のやつ」
「浩介さん」
ふとつぶやいていると、憂に声を掛けられた。
「何?」
「浩介さん、何か大事な話があるんじゃないですか?」
憂の目からは決して誤魔化させないという強い意志を感じた。
僕は、それを正面から受け止める。
「………少し前から、唯と真剣に交際している。平たく言えば、付き合っている」
「…………」
「もちろん、遊び半分ではないし、唯のことを幸せにできるように努力するつもりだ。今日、ここに来たのはその挨拶をするため」
憂は表情を変えずに僕の言葉を聞いていた。
「だから、僕たちの交際を許してほしい。この通りだ」
土下座をするわけにはいかず、頭を深々と下げた。
「それって、いずれはお姉ちゃんと結婚するということですか?」
「そのつもりだ。今は無理だけど、行くべき所に行って、しっかりと落ち着いたらになるけど」
憂からの切り込んだ問いかけに、少しばかり意外に思いながら、僕は冷静に答えていった。
実際、そこまで深くは考えていない。
というのも、唯は進路がある。
その進路がはっきりするまでは、僕は今の立ち位置でいるつもりだった。
「そうですか。だったら安心だよね、お父さん、お母さん」
「へ?」
憂の口から出た単語に、僕はその意味が理解できなかった。
「ああ、君になら私の娘を任せても大丈夫だろう。ねえ、母さん?」
「ええ。それに何より娘が選んだ男の子ですもの。しっかりしていて優しそうだから、私は大賛成よ」
そう言いながら現れたのは、唯の両親だった。
「えっと…………」
「えへへ、浩君そこまで私のことを考えてくれてたんだね」
混乱している状態の僕に、畳み掛けるようにして頬を赤くしながら体をくねらせている唯が姿を現した。
そんな、サプライズにとうとう頭の処理能力を大幅に超えてしまった僕は
「……………きゅぅ~」
「こ、浩介さん!?」
「こ、浩君!?」
気を失うのであった。
「う……ん」
「あ、目が覚めた」
気が付くと、僕はどこかに横たえられていた。
(あ、そうか。僕気を失ってたのか)
何だかとてつもなく恥ずかしいところを見せてしまったような気がする。
少しだけ冷静になると、頭にやわらかい物の感触があった。
「大丈夫? 浩君」
真上には唯の顔があった。
どうやら、僕は膝枕をされていたようだ。
キスや食べさせあいっこをしているのだ、膝枕程度で照れるわけがない。
「大丈夫。唯もごめんね、重かったでしょ?」
「ううん。重くなかったよ。とてもかわいい寝顔だったし」
「か、可愛い……」
前言撤回。
唯の前では慣れなど関係がない。
「あらあら。ふふふ」
「こうして娘は自立していくのだな」
「「ッ!?」」
横からかけられた両親の声に、僕は素早く土下座した。
「大事な娘さんにひざまくらをさせて本当に申し訳ありませんでしたっ!!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて」
それからしばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した僕たちは夕食に舌鼓を打っていた。
「ということは、憂もご両親方も知っていたんですか?」
「うん。ごめんなさい。学校の方で噂になっていて」
食事の際に、全ての事情を知らされた僕に憂は申し訳なさそうに謝ってきた。
要約すると、僕と唯の交際はすでに憂は知っていたそうだ。
そしてそれは両親もで、僕の本心を聞くために、わざと知らないふりをしていたのだ。
ちなみに、ご両親方がいたのは本当に偶々だとか。
「どうか、娘のことをよろしく頼むよ。高月君」
「はい。この命に代えても、娘さんを幸せにします」
そして僕はご両親にもう一度自分の覚悟を告げる。
修羅場は展開しなかったが、自分にとってはものすごくいい決意ができたことを考えれば、これはとてもいいことなのかもしれない。
一気に二つの課題をクリアするのは少しばかり予想外だったが。
そんなこんなで、この日の夕食は、今までよりも楽しい物となるのであった。
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