とある会場。
そこではどよめきに包まれていた。
救急車を呼ぶよう指示を出す者や、悲鳴を上げる者。
そんな人物たちの中央で倒れているのは、一人の男だった。
黒髪のその男は薄れゆく意識の中でその声を聴いていた。
(どうし……て)
男は心の中で声を上げる。
それは男の口からは言葉が出ないからなのか、それとも別の理由があるのか。
それは定かではない。
薄れゆく意識の中、男は一週間ほど前の事を思い起こす。
男の運命を大きく変えるその夜の事を。
File:1 最速の人間(前編)
「はぁ、今日も走った、走った」
高層ビルが建ち並ぶほどの都市部のアパート。
その一室の部屋に入った男は一息ついた。
その男の名は東(あずま) 公一郎(こういちろう)という。
公一郎は、今マスメディアに取りざたされるスーパーアスリートなのだ。
中学から5の大会でスポーツ選手を蹴散らして優勝するという、偉業を成し遂げているからだ。
そんな彼も、今や一人のアスリート。
(まだまだだ。もっと早くならなければ優勝できない)
公一郎は8日後に開かれる国際マラソン大会に出場することになる。
そこで好成績(ベスト3)を残せば、オリンピックなどに出場する権利を得る近道ともされている大会だ。
公一郎はその大会で優勝を目指していた。
(あいつのタイムとの差は3分。大丈夫。まだ時間はある)
自身のライバルとの時間差を思い浮かべるも、公一郎は、確証の無い自信を自分に言い聞かせるようにつぶやくと、汗を流すため浴室へと向かう。
それから間もなくして、公一郎は眠りについた。
(明日のトレーニングメニューとコース変えてみるか)
そんな事を頭の中で薄っすらと考え込みながら。
「あれ?」
公一郎は自分に起きている現象に首をかしげていた。
公一郎は立っていた。
そこは何もない真っ白な世界。
(どこだ? ここは)
辺りを見回しながら足を進めるだが、いくら歩いたところで周りの景色に変化はない。
微かな恐怖心が芽生え始めた頃のことだった。
「やあ、ようこそ。我が城へ」
「っ!?」
突然聞こえたその声に、公一郎は息をのむ。
そして慌てて声のした方でもある背後へと振り返る。
そこには銀色のようなワンピースの服装をした金髪の少女が立っていた。
だが、公一郎には顔が分からない。
まるで影があるかのように顔が見えないのだ。
「とは言っても、ここは君の夢の中だけどね」
その少女はそう言うとクスリと笑う。
「な、なんだよ!」
「君は今とても苦しんでいる」
一歩近づく少女に虚勢を張るように声を上げるが、それを気にした素振りも見せずに言葉を紡ぐ。
「どうしても越えられないライバルに負けるから」
「……な、何だよ突然」
たった一言のはずが、公一郎には何もかもが見透かされたような錯覚を覚えるほど、衝撃を受けていた。
「君は『優勝しなければいけない』という世間からの重圧にとても苦しんでいる。もし2位だったら、周りから浴びせられる視線は冷たくなるから」
「……い」
「だから、いっその事負けてしまいたいと思っている」
「……さい」
「でも、優勝して名声を得たいと思う君もまたここにいる」
「うるさい!」
最初は小さかった声も、最後は罵声へと変わっていた。
それは、自分の心の中を見透かされているという気味の悪さからだった。
少しでも虚勢を張らなければ、自分が自分で無くなる。
そんな錯覚に囚われていた。
「悪いね。怒らせるつもりではなかったんだが」
本当に悪いと思ってるのか分からない声色で謝罪の言葉を口にする少女は、さらに言葉を続ける。
「君に権利を上げる」
「権利? 何だ」
少女の言葉に、公一郎は首をかしげる。
そんな彼に、少女は静かに告げた。
「それはね『君の願い事を何でも一つだけ叶える』権利だよ」
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